ほえほえ日記
〜フォントサイズ「小」で綺麗に見えるように書いています〜
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今日はすっごく暑かったです。じりじりと日差しが照りつけ、気温も上がって猛暑日でした。
そんな中、お盆ですのでお墓参りに行ってきました。
旦那さまのほうは、北海道ですのでなかなかお参りに行けないのですが、私の方のは自宅から車で30分ぐらいのところにあります。
午後一番の暑い盛りにいったせいか、他にお参りしていた方は、ひと家族だけでした。
両親は、もうお墓参りを済ませたらしく、真新しい卒塔婆がおかれていました。
お墓参りを済ませてから、映画を観に行く予定になっておりました。
でも、当初予定していた「ダークナイト」の上映時間には間に合わず、間に合いそうで観ようと思っていた「崖の上のポニョ」に急遽変更して観賞してきました。
見終わった感想は……というと……
初めてのめり込んでみる事が出来ませんでした。
映画の中の「世界観」にどうにもブレやにじみ、ほころびを感じてしまうのです。
子供のための童話を読み聞かせながら、読み聞かせてる大人が、時々いらないツッコミやチャチャを入れているような感じといった印象を受けました。
例えば……
●ポニョが底引き網?に巻き込まれるシーン
それまでの生命力溢れる美しい海の中を描きながら、なぜゴミをいっぱい出す必要性があるのか……
ポニョが一緒に網に巻き込まれる際ゴミの中の瓶にハマってしまうというシーンが必要で、
でも空き瓶ひとつでは、あまりに偶然すぎるので他のゴミもいっぱいにしたのでしょうか
このシーンひとつとっても、童話的な世界に現実にありうる世界が顔を覗かせています。
●海で拾い上げたポニョを、迷わずバケツに水道水を入れてその中にいれる。
まあ、5歳の子供の判断ですから、「♪赤いべべきた可愛い金魚♪」よろしく、見た目で金魚と判断して、
バケツに水を張ってしまうのは仕方がないでしょうが……
でも、リサに対して海で拾ったと言及しているのに対して、
リサが「だったら海水にしないと」とツッコミが入らない。
また、あっさり「金魚」だねえといってしまう当たり……どうにも違和感が。
子供の感性を大事にしたいという母親の気持ちの表れなのかもしれませんが、その結果、淡水であるがために死んでしまう→息子が悲しむという発想は
なかったのかなあと。
一方、このシーンは、ポニョはどんな環境だって、生命力たくましく生きられるということを示すシーンでもあったのかなあと……
その為に、「金魚」であり、水道水である必要があったのかなあと……
●ポニョを追う父親の潜水艇のまわりにもゴミいっぱい。
その上、ヘドロが舞い上がって見えなくなったりと。
こんな感じで、時々差し込まれる「現実的」なシーンで、あっさりと童話的な要素を受け入れてしまうこの世界がぶれて見えてきてしいます。
●宗介が老人ホームの馴染みのおばあちゃんたちにポニョを見せると……
ほとんどの反応が「可愛いねえ」なのに……たったひとり、トキさんだけ「人面魚だっ!」と。
これは、トキさんの性格を表すために必要なシーンだったのかもしれませんが、ふつーの大人の感覚では
トキさんの「人面魚」の方にうなずいてしまうのではと思いましたが……?
そのあとに「人面魚が現れると津波が来る……」というようなセリフが続きます。
このセリフを聴くと、人面魚が現れたあと、実際に過去に津波が来た事があっての言い伝えのようなものなのかと。
そうすると、この世界では、人面魚はふつーに今までにもいたものなのかなあと。
だとすると、より「金魚」といってしまえる感性に疑問符が浮かんで来ます。
●宗介の通う幼稚園と老人ホームがお隣どうしになっている。
子供の宗介は、敷地の「境」の垣根をかいくぐって行けても、老人ホームにいるひとたちは、決して「境」の垣根をくぐって幼稚園には行けない。
なんか、象徴的だなあと思えるのは、勘ぐりすぎでしょうか?
●姉はポニョひとり。妹は無数。
実はポニョと同年齢の姉妹兄弟が多数いて、でも、最終的に残ったのはポニョひとりなのかなあと。
無数の妹たちも、いずれ生き残るのは少ないのかなあと。
妹たちに、年齢差と感じられるような個体差、大きさの違いとかがあれば上記のような思いには至らなかった思うのですが……
まあ、現実世界魚類はいっぱい産んで、その中のわずかな数が生き残る……というのが、大多数の繁殖形態なので、当然といえば当然なのですが……
●リサの行動がよくわからない。
子供を乗せてのあの運転はないだろーーってのがまずひとつ。
なぜわざわざ、嵐の夜にいったん家に引き返す必要があったのかがわかならいってのがふたつめ。
まあ、ふたつめについては、宗介を高台の安全と思える自宅に、戻しておきたかったという母心からだとしましょう。
だとしても、結局嵐の夜に、その子供といきなり迷い込んできたポニョとをたったふたりきり残して、老人ホームに戻ってしまうという行動がよくわからない。
自分の子は、大丈夫という自負があるのかもしれませんが……
嵐の夜ですよ〜絶対はないと思うのですけれどねえ。リサ自身だって、出掛けたがゆえの危ない目にあう可能性だってあるわけで。
●魚←→半魚人←→人間 を、行きつ戻りつ。
宗介の血を舐めたことによって、半魚人になったというような説明が途中であるのですが。
それ以前に、実の父親は人間なわけで。ポニョを魚と言い切るのであれば、魚と人間のハーフなのだから半魚人なのは当然のことだろうと。
そうなると、宗介の血を舐めて云々というのは、必要な過程と説明だったの?という疑問が。
ついでに言えば、人面魚のポニョのほうが、半魚人っぽい。
半魚人のポニョは、なんだかカエルっぽいんですが……(^_^;)
それとも、魚→両生類→ほ乳類という進化の過程の符号なんでしょうか……?
まあ、他にもなにやら色々と、些細な事ではあるのですが、なんだか中途半端な感じが抜けなくて困っています。
「世界観」に、これまでの宮崎映画と違って、のめり込む事が出来ずに終わってしまいました。
お盆休みでもありますし、子供も大勢観ていたのですが……途中途中で子供の声が……「ねえ、まだ終わらないの?」と何回も。
大概、宮崎映画はレイトショーで観ていたので、子供たちと一緒に観るというのは実は初めての経験なのですが、漏れ聞こえてくる子供たちの声を聴くと、なんだかなあという感じです。
笑いも、わあっと言うような歓声も、ほとんどなかったですしねえ。
まあ、唯一エンディングで流れる「ポニョの歌」の時だけ、数人合わせて唄っている子供がいましたけどね。
うーーん。なんかちょっと、残念な感じでした。魔法的な要素をあっさり受け入れられる現在に酷似した世界……なのかもしれませんが。
そうだとしたら、それはそれでちょっと中途半端な気がしております。
映画を見終わってからいったん帰宅。息子たちに晩ご飯をあげるための帰宅です。
ご飯を食べ終わったのを確認してから、再度のお出掛け。
土浦市(合併前は新治村)の大畑鷲神社(おおはたわしじんじゃ)の「からかさ万灯」を観に行ってきました。
下道だけでも十二分に行ける距離なのですが、ちょっと時間が押してしまったので、2区間だけ高速を利用して行ってきました。
毎年8月15日に開催される、起源は江戸中期頃、「雨乞い」の神事です。国選択、県指定無形民族文化財になっています。
現在では、雨乞いだけでなく、五穀豊穣、天下太平、家内安全などの意も含まれた神事になっているそうです。
到着してみると、まあ、見事に外灯がない(^_^;)
おまけに、少し離れたところでは、雷が……雲が何回も明るく光っておりました。
用意された駐車場は遠いとのことで、警備にあたっているおじさんが、まあ適当に(^_^;) というので、裏道の車が並んで留まっているところに駐車。
行き交う車のライトを頼りに、暗い歩道を歩きます。月が満月近く煌々していたので、目が慣れるとだいぶんらくにはなりましたけどね。
夜店が何軒も並んでいて、結構な人出です。
それでも、舞台をちゃんと観られる場所を確保出来たのは、旦那さまのおかげです。
それから15分くらい、「民謡ショー」を聞くハメに(^_^;)
日中からいろいろ余興や御神輿が出たりとやっていたようで、民謡ショーが一番最後の演目のようでした。
ようやく民謡ショーが終わったときは、確認していた時間より、15分ぐらい押していたかと思います。
舞台の右端からお囃子が聞こえてきました。
ちょっと変わっていて、鳴り物がない曲、韓国のサムルノリににも似た、変わった拍子のお囃子がしばし演奏されます。
次いで、曲調が変わり、鳴り物も鳴り出して、踊り手が舞台に上がってきました。
最初が「おかめの踊り」(写真上段左)
どうやら女の子が中心になって待っているようです。やさし気なゆったりとした振り付けですが、ところどころに歌舞伎のイメージが重なります。
次が「ひょっとこの踊り」(写真上段真ん中)
こちらは、男の子とが中心になっているようで、おかめの踊りと比べると軽快で、なんだかラッパーライクに手をかざす事が多い振り付けでした。
最後に「狐の踊り」(写真上段右)
こちらは、大人さんにんでの演舞。
真ん中の白狐が小さな和傘を持っていて、どうやらこれが「雨乞いの踊り」のようでした。
こちらは、最後に歌舞伎などで使われる蜘蛛の巣が手から放たれ、観ている最中にも感じたのですが、
歌舞伎をはじめ、諸処の踊りが盛り込まれているような印象でした。
踊りが終わると、いよいよ「からかさ万灯」に着火です。
部舞台から綱火で着火されるのです。
ヒューーーーっという鋭い音が凄いスピードで通り過ぎ、パアっとからかさ万灯に着火されました(写真下段左)
唐傘に見立てた骨組みで、上段の傘の部分に着火します。
下段の花飾りがついた部分は、鎮火後地元のかたが、持ち帰っておりました。
厄よけとかの意味合いがあるのかもしれませんねえ。
傘全体に火が回ると、中央にも火が上がります。
と同時に、傘から花火の雨が降り始めました(写真下段右)
これで完成系のようで、このままの状態でしばらく燃え続けておりました。
燃焼時間はそれほど長くはないのですが、からかさの大きさが、直系5m、高さ6mほどあるそうなので、なかなか迫力がありました。
鎮火したのを見届けてから、神社の縁起など読みつつ、帰りは下道で、のんびりと帰宅しました。
今年のお盆は、なかなか充実しております。